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2016年2月アーカイブ

仏教について⑫の続き


 人生の中に "苦" をつくり出している張本人は、自分の中の "我" の意識です。

では、この "我" という意識が具体的に、自分自身をどのように不幸にしていくのかを挙げていってみます。

 「いやなやつ」と言われているのは、みんな例外なく "我" の強い人間です。
人と人とのいさかいや、争いというのは、すべて、お互いの "我" と "我" がぶつかり合うところに起こるものです。
 "怒り" という感情が、そもそも "我" の意識の中から起こる心です。

人間は起こった分だけ不幸になるのです。
【 怒り 】 は外に向ければ人と人との "和" をこわし、自分の内に留めれば、今度は自分自身の身体の働きをそこね、肉体の故障や病気にもつながってしまう。
精神異常やノイローゼといった神経症、ホルモンバランスが崩れて食傷や不眠、ストレスでの以上肥満やその他、いまだ原因のはっきりしない病気は "我" の持つ潜在的な怒りとなんらかの形でつながっています。
運命のなかに起こるいろいろなつらい出来事も、怒りのエネルギーがカルマ(業)の法則とつながって現象となってあらわれているといいます。

我" の意識は、こうした【 原因と結果を結ぶ見えない糸  】があるということに気づくことができません。

さらに、 "我" は、独自の、狂った価値観を持っています。
"我" という意識は、本人の不満や怒りの心とともに成長してきたもので、自分が体験した様々な "苦" に応じて、心をゆがませてしまっている。ゆがめられた分だけ、価値観もゆがめられ、狂うのです。

際限のない物質欲や、金銭欲。
独占欲中心のエゴ丸出しの愛憎、他者の苦を顧みない弱肉強食の精神。支配欲に権力欲、虚栄心、e.t.c...
数え上げるときりがありません。狂った価値観は、それらを得ることが自分の幸せを実現するものであるかのように思い込んでいます。
しかしそれは "邪" の世界のもの。仮にそれを求めて実現できたとしても、そこには救いようのない悪い悪いカルマが生まれ、すべてが自分の「苦」になって自分の運命の中に返ってくる。

そうした "存在の法則性" が常に運実の中に働いている事実を "我" の意識は気づけない。
 幸せを求めれば求めるほどに不幸になる、と言うのです。これが狂った価値観の宿命になる。

これは、 "我" の意識が、「正」 と 「邪」 を判別する能力がないことを言っています。
そして、これが "無明" と呼ばれているもので、 "我" とは、すなわち "無明" そのものということなのです。

(教について⑫に十二因縁の流れかきました。)


進化の法則(十二因縁)の中において、この "無明" というものがある限り、人間の霊は、いやも応もなく 「苦」 という肉体生命現象を繰り返して、この世にあらわれます。
しかも、そこで味わう 「苦」 は、さらに強力なものになっていきます。
 "地獄" といわれているものの意味が、ここにあります。




長くなったしまったので持ち越します!
でも十二因縁のお話は次のブログで区切りできる予定です( ^ ▽ ^ )=333